昭和46年12月30日 朝の御理解
中村良一
御理解 第18節
「此方の事を、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
生神様にはなれなくとも、生神様を目指すのが金光様のご信心です。これは、言うなら、全信奉者、金光様のご信心を頂く、すべての人が、私は、ここに思いを置いて、信心の稽古をさせて貰わなければならんと思う。ですから、本気で、やはり、その気になること。これは、お道の信心をさせて頂く者の、最高の目標であり目印なんです。生神金光大神、時々でも良い。これが生神様の境地であろうかと、お互いね、思わせて頂けれる様な心の状態。生神とは、ここに神が生まれるということであってと仰るのですから。
今、教会の入り口の、高い塔が塗り替えられております。今日あたりは、まだ、着くのじゃないかと。正面の方は、金光教合楽教会の看板が出て、三角塔になってますから、こちらの方で、ついこの頃までは、世のお役に立たせて下さいという、私共の、総合楽の信奉者の、総祈りなんですね。そういう祈りの元に、世のお役に立ちたいと。やっぱり、お許しを頂かなければ出来ませんから、立たせて下さいという祈りが、お互いの信心の目指す、一つのスローガンともなっておった訳です。これからの目標、目指すという所を、様々に、大体、また皆さんからの気持ちを、みなさんの、どういうふうが良いか、どういうふうに書かせて貰ったら良いだろうかと相談をしたんですけれども、私は、どうでも一つ、和賀心時代とこう四五年来に入って、様々な、何々時代、何々時代という事が言われておりますけれども。いよいよ、その先端を良く学び、総氏子が、様々な時代を経て、いよいよ、心である。人間の幸福というのは、どのような人間が、月の世界に行けれる様な、例えば、時代になったとしても、結局は、心なのだ。しかも、その心が、その心におかげが伴う。人間の幸福に必要なというか、まぁ幸福の条件というか、というものが伴うてくるほどしの心を、和賀心というのである。教祖金光大神は、おかげは和賀心にありと仰せられる。その和賀心、その和賀心を目指そうというのである。その和賀心を、お互いが、まずお道の信奉者の人達が、まずそこに開眼させて貰うというか、発心させて貰うというか。開眼、そして発心ということになるでしょう。
ですから、合楽で言いだしておる事でございますから。私を中心とする、ここで信心の稽古をなさる、総信者の方達がです。確かに、和賀心を目指させて頂いて、信心の稽古をさせて貰う。それには、最高のお道の信奉者である者ならば、誰しも、そこを目指さなければならない。此の方が、おかげの受けはじめと仰せられる生神の境地。生神とは、ここに神が生まれる。次々神が誕生するというほどしの心を目指して、信心の稽古をさせて貰う。その生神が誕生するほどしの心の状態が和賀心である。その和賀心が、持ち続けられるということの稽古である。それが、とりもなおさず、生神を目指す事に、いわばなる訳です。そこで、色々と、和賀心に思う訳ですけれども。和賀心時代を築こうとか、和賀心時代を作るとか。和賀心を広めようとか、または、和賀心時代を開こうとか。まぁ色々に出たんです、どう書こうかという事が。それで、結局、私は、これは、広めようとか、開こうとか、または築こうとかというのは、何処までも、これは、私共が、築こうとか、開こうとかと、如何に頑張ったところでね、私共で開く事も、築くことも出来る事ではないことである。やはり、神様が、開いて下さらなければならない。
してみると、こりゃ、和賀心時代を創るということになる。創るという事は、創意の創ですね。天地創造と申しましょう、創造の神とか、あの創です。倉辺を書いてこうりが書いてある。二本棒を引いた、あの創です。初め、そう言ってましたけれど、字引きを引いたところが、そういう、創るといった様な事に、意味はならないとこう言う。そんならその、思う様に行かんかなと思いよったところが、最近、こんなに厚い辞典をお歳暮に頂いた。四千五百円かする、こんなに厚い奴だ。大きな辞典。それで調べさせて頂きましたら、やはり、創というのは、作るということの意味内容がるという事が分かりまして決定した。和賀心時代を創ると。もちろん神様が創る。ですから、ほんなら神様が、一人で、如何に頑張りなさったところで、出来んのですから。それを本当に思うもの。世界中に、そういう、和賀心時代を、世界の隅々にまで、開かせて頂いたら、どのように世界が真の平和になる事であろうか。総氏子の、いわゆる人間が、どのように有難い、助かりということになってくるであろうかと、思えば思うほど、そういう運動を展開しなければおられないというのが、私なのである。それが、私を中心にして、そういう運動が展開される。そこで、これはもう、切実にそれを願う者と、また切実に、いわゆる御神願、神の願いというのが、もうそこ以外にはなかろうと。それに応えて、私が立とうとする。そこで、合楽の御神縁を頂いておる、全信奉者の方が、それにまた、その気になって、いよいよ、和賀心時代を創る。まず、和賀心の中に、わが家の上に、自分の周囲周辺の上にということになってくる。だから、創るという事が、一番適切の様に思われる。一番強い、神願が成就するということ、神に願いが成就する。それを受けて、応えるというのであります。だから、本気で、その気にならなければ出来ん、私自身が。または、皆さん方がです、その気にならなければ、まず、だから、秋永先生なんかは、そこをはっきり打ち出したがようはないかと。和賀心時代は、まず合楽からという訳ですね。というような、その説も出ましたんです。まず合楽から、まぁ事実、その通りなのである。
そこで、私、今朝の御祈念に、その事を願わせて頂いて、そのためには、どうぞ、和賀心を創るという事がです。このような人間の幸福の条件の全てが、それに伴うて来るんだという証をね、いわゆる印を、神様は見せて下さらないとです。これは、容易に広がってはいけん、言うだけでは、説明しただけでは。修養的に言う、和の心と言うようなものではないのです。ただ、平和な心にと、そういうものだけではないです。それではね、おかげは伴わないのです。どこまでも、金光大神の御取次によって生まれてくるところの、和の心であり、喜びの心でなからなければ、人間の幸せの条件であるところの、一切のものが着いてはこないのです。ためには、どうぞ、神様、そのおかげをです、頂かせて貰うという事は、とりもなおさず、和賀心ということの、いわゆる、幸せというものをです、実証する事になる。経済の上にも、人間関係の上にも、様々な難儀な問題というものがです、克服されて、そこには、有難い、有難いという一念を、そこに燃やしていけれるというほどしの生活。だから、そげんまではならんでん、生神様にまでならんでんと言うようなものではなくて、目指すところを、どうでも、そこにお互いが、目指さなければ、願わなければいけない。
私は、今日、どうぞ神様、その実証をね、合楽の信奉者の一人一人の上に、その印を見せてくださいという意味のお願をさせて頂きましたらね。もう、それこそ、広い、広いもう、見たこともないほどしの広い、レンコン畑を頂きました。蓮畑。ずーっと、まだ、ちょうど、今頃らしくって、枯れておる蓮根畑ですね、葉が。花はない。ははぁ、これは神様が、とても例えば、ほんならですよ、私共がです、どんなに、ほんなら一生、ばた狂ったところで、教祖金光大神が受けられたような境地は、私共が受けるという事は、この方がおかげの受け初め、みんなも、そのようなおかげが受けられると仰せられてあってもです。頂けるとは思えんけれども、目指すところは、そこだという事。で、私どもは、その気になって願うということになるという事は、どういう事かと。そういう姿勢を取らせて頂くとです。例えば、生神とまでは行かんでも、金光大神には、なれなくても、もうお道の信心は、何処までも、和賀心に絞る以外はないのだと。生神金光大神を目指す事が、お道の信心の、最高の目印なんだと。ためには、私どもは、日々を、和賀心とは、和賀心とはと、和賀心の頂けれる、開けてくる道を辿らせて貰う。または、そこを精進させて貰い、いわゆる、求めて行く。いわゆる、そこのところに焦点をおいて求道するのである。そこで、ほんなんら、求道という事はです、教祖様の御教えを、いよいよ、忠実に守って行くこと以外にはなかろうと思いますけれどもです。それを、そら大変なことだと言わずに、その気にならせて貰うということ。私共が、そういう、いわば、気にならせて頂く所からです。私は、天地の親神様が、その心に感応ましますとこうですね。おかげというのは、神の感応なんです。天地が感応して下さるんです。本気で生神を目指すんだと。今日も一日、本当に、和賀心を頂かせて下さい。また、頂いた心を持続させて下さい。有難いという心を頂きぬかせて下さい。そのための、様々な精進がある。それには私は、それにですね、本当に思いこませて頂くというかね、その事を貫くという。そら、色々な障害がありましょう。そらもう、実際問題としては、いろんな障害が出て参りますけれども、そこを貫くということにある。
昨日一昨日でしたか、土井の久富さん、邦雄さんの、邦雄さんじゃない、勇さんの奥さんですたいね。二三、お届けなさっておられました。先日から、娘のみどりの父兄会にやらせて頂いた、お父さんが。そしたら、もう、あんたがたん、みどりさんな、もう何時の場合でもその、合楽、合楽、作文にも合楽の事ばかり。まぁだ子供のくせに、いうなら、信心の事を言うたり。そしてもう、どんなに試験の時でも、合楽に行って、合楽に行って、もう、そういう事では、合楽行きが、ちっと、ひど過ぎると。もう、えらい極端に言われた。そら、信心も良いだろうばってん。まぁだあーた、あのくらいな子供を、合楽、合楽と、合楽にやるのが、ひど過ぎりゃせんですかち言うてから言われた。それで、勇さんが言いなさったそうです。そりゃ、もう勉強も大事なこつどころではありません、どがしこ勉強したところで、人間の幸せには繋がりまっせんもんのち言うたち。私共は、もうとにかく、人間の幸せに繋がること。これはまず、信心によらなければ出来んと思うとります。もう勉強は、その次です、家の子供はと。いえ、お父さんが、そげん言いなさるなら、私は言うとこがなかたいち言うて、いう事じゃったそうですけれどもです。実際、ほんなら、ふたを開けてみてです、例えば、学業の上の事を。なるほど、合楽合楽言うようになってから、いわゆる、勉強の方が出来ませんけれども、結局、やはり、クラスで二番でしたかね、の成績であったと言うて、その事をお礼を言うておられます。ですから、こりゃもう、手前の手前の、一つのとこを、それを目指すという事がです。信心を、本当に目指すという事がです。その辺にですね、もう人間心を使うような事では、生神を目指すとは言われません。一家を挙げて和賀心、一家を挙げて生神を目指す。子供の時から、その基礎を作らせる。私は、合楽では、どうでも、その精神をです、家庭中の者にね、徹底して行かなければいけないと思う。なぜって、合楽が、まず、一つの拠点であり。合楽がまず、合楽からと言っておるのですから。和賀心時代というのは。子供だから、年寄りだからということはない。
昨日の、敬親会でしたがです。お話をしても、何かこう、がやがや言うてから、いっちょんこう、私の話を、身を入れて聞く雰囲気が無いもんですから。私は、まず、お婆ちゃん達の話を聞こうと思うて、ある方に、ずっと、いろいろ聞いた。あーたは、どっから嫁入って来なさったつですか。そして、どこに行きなさったつですかと、みんなから聞かせて貰うた。みんな、例えて、最後に嫁入ってきたつは、常持から、それからまた、その、近所からばっかりですね。昨日、二十人余りのお婆ちゃん達が、みんな集まってましたけど。みんな、近所の方達ばっかり。村内同士というのは、町中同士という方達がある。そんな、近くからですけれどもです。里帰りは、どげな風ですかち。ほらもう、今でんやっぱ、里帰りち言うなら、もう嬉しい。親が居る時には、なおさら、もう本当に、行ってすぐ帰ってくるでん、やっぱ、里には行きたい。もう里帰りと言うほど楽しいものはなかったという意味のお話を、それぞれなさいます。ほんならあなたが、どこどこに嫁って、ここに嫁って来なさってから、もうどの位なりますかち。みんな五十年余りの方ばっかりである。例えば、宮崎さんのお婆ちゃんなんか、もう五十五年間なりなさる。ずいぶん、五十五年の間には、様々な事がございましたろう。もうそれこそ、芝居やら小説にしてよかごたる、いろんな問題があったとこう言う。その時分に、あげなこつも忘れられません、これも本当に、悲しい事だったといった様な話をなさいました。みんなが、そういう、やっぱ、五十年間も、生活をして参りますとね。それこそ、様々な事があった。それで、あなた方が、五十五年前に、もし合楽の御信心を頂いておられたら、その全てがね、おかげになって来とったであろう。そういう難儀な、例えば、赤の他人にこう言われた事があった。もう血の涙が出るごとあった。もう、一晩中、まんじりともせずに、その事が歯痒い、眠らずに歯痒い思いをしたという話もあった。どうでしょう、合楽の信心を頂いて、今、私が申します、本当に、和賀心を目指す事が。または、御神意、ご神願ということが分かったら、赤の他人と言うておるけれども、その人が、もう即、神様だったなと頂けたらです。そういう難儀な事はなかっただろうねと言うて話したことでした。そこで、例えて言うと、ほんならば、みなさんの、月に一回の会合が、待ち遠しゅうして応えんという様にして、まぁ皆さん、お見えになるけれども。
例えば、熊谷さんの例を取りますと。もう、七十幾つのお婆さんが、しかも、吉井の、三里も四里もあり所から、朝の御祈念に参って来て、また夜の御祈念に参って見える。こらもう、絶対。もうそれがね、もう有難うして有難うして、最近なんかは、バスですから、総代としてのお届けが、何時もできなさらじゃったけれども。その降りてから、走ってくると間に合うと言うことが、この頃分かってきた。だからもう、バスから降りてから、もう小走りでやって見えると、その、総代全部でお届けをする、それに間に合う事が、もうとにかく有難い。もう、それこそ、いそいそとした信心が出来ておる。それは、例えば、熊谷さんが、ここにご縁を頂かれて、自分の心が、全部、過去の自分と変わってしまった。いわゆる、新たな信心の心が合楽で誕生した。ですから、熊谷さんのためには、もうここは、いわば、心の故郷になっておる。だからこそ、あのいそいそとした信心がお出来になるのですよ。皆さんも、そこのね、一つ、今からでも、遅くないから、本当に、合楽のおかげで、自分が、不平不足も言わんで済むようになったと言うようにですたい。心が、生まれ変わる一つ、おかげを頂きなさらないけんと言うて、お婆ちゃん達に、それを話した。もう年寄りだから、もう後が短いからでどうち言うことはない。みんなが、和賀心を目指さなければならない。今の中学何年生かの、ほんなら、みどりさんでも、やはり、親がその気になって、子供の、いわゆる和賀心時代を創ることの、いわゆる、奉賛者にさせて頂くと言う、熱意を持たなければ。親自身が、その気にならなければならない。ただもう、お願いしてから、おかげ頂くと、とにかく、それこそもう、五十年なら五十年、それが続いたところで、それじゃ詰まらん。そう言うほどしのもの。そういう例えば、私共が、一心発起すると言うか、そういう心に、私共がならせて頂いたら。出来ませんけれどもです。神様が、それこそ、レンコンを食うて下さるおかげになってくると言うことです。私共が、本気で和賀心時代を、私の心に、私の家庭に作ろう。問題が起こっても、さぁ和賀心和賀心というたら、もうその問題は、消えて行くようなです、おかげを、まず、自分の家庭に作るためにはです。親も子も、やはり、中心になるものも、いよいよ、その信心に目指さなければいけないということが分かる。そして、ここにはです。消極的なものでなくて、本当に積極的に、それに取り組む事が、一つの、それが運動だと、私は思うです。さぁ、選挙が始まると運動が始まるでしょう。それなんです。和賀心時代を開こうとか、広めようとか言う、いわば運動が始まるのですから。やはり、運動しなけりゃいけんでしょう。まず、自分の心の中は、もちろんですけれども、家庭の上にその運動を始める。
私は思うのにですね。蓮根畑というのから、蓮根ということは、神様がね、そういう、私共が意欲を燃やすとです、出来んでも、神様が、蓮根を食うてくださるような、おかげんなってくると。そこに、例えば、これが、開花すると言うことになってごらん。それこそ、蓮の花が、その広い広い蓮畑に一杯に咲き乱れる様なおかげになってくる。私は、その蓮の花というのを、まぁ極楽というふうに頂いた、感じた。それこそ、どろ田んぼのような中からでも、蓮の花のような花が生まれる。私共のは、どんなに精進しても精進しても、言うならばです、どろ田んぼ汁のような、心の状態かも分かりません、人間は。神様の目からご覧になれば。けれども、そこが、すきっとしなければ、そうならなければ、おかげはやらんと仰るのではなくて、本当に、どろ田んぼ汁のような私ではございますけれどもね。願うところは、和賀心であり、生神金光大神を目指すという、その意欲に対してです。蓮の花が咲き乱れるほどしの、いうなら、極楽の世界というものが開けてくる。だから、神様だけでは、どうにも出来ん。というて、人間だけでは、人間が開こうの、広めようのと言ったって、絶対、出来る事では絶対ない。そこで、和賀心時代を創ると言う。神様の働きと、私どもが、その気になって、一心発起。焦点をそこに置いて、いわゆる、和賀心時代を創るという運動に参加させて貰うという意気込みを作らなければいけない。それはもう、年寄りが言うたっちゃしようがなか。子供は、まぁだぼちぼちというような事じゃなく。運動が始まったんであるから、運動しなければいけん。運動しかけなければ駄目だと。私は、今日のお知らせを頂いてです。そういう、意欲に対して、神様が、蓮根食うて下さるようなおかげを下さるのですから。とても、私だん、生神様にならんでんよかてん、そげん、和賀心和賀心と言わんでんと言うような事ではなくてです。いよいよ、そこに、私は、焦点をおいての信心をね、させて頂かねばんらんと思うのです。
昨日、私、風呂に入っておりましたら、ちょうど、電話がかかってきた。けたたましい電話であった。まぁいうなら、何と申しますか。まぁ大変、難儀なことなんです。けども、風呂入っておりましたから、若先生が、そういうて来ました。けども、裸で出る訳にいきませんから、そこに、神様にお願いさせて頂きましたら、ちょうど、私は、風呂場に歯磨きを持ってはいるんです。デンターライオンと言う、あの練り歯磨きのね。デンターライオンの歯磨きにですね。あら、おそらくあれは頭文字でしょう。ローマ字で書いてあります。私は読めませんから、久富先生と一緒でしたから、久富先生、こら何ち言うのち言うたら、先生も知りなさらん。あの、こんな字が書いてあるですね。ABCDのディーだそうですね。お腹がこう膨れているように、私には見えた。ちょうど、婦人の、大どん腹の時のような状態に見えた。はは、これは、生み出す前の生みの苦しみだと、私は思うた。だからすぐ、勝彦に、それを言うてやった。決して困った事じゃない。いわば、生みの苦しみだ。今もう、お産が始まっておるようなもんなんだ。そこで、私どもが、思わせて頂くのにです。良いものが生み出されてくるという。生神金光大神が、生み出されてくるというような事のためにでもです。生神が生まれてくるための、いうなら、十月十日と言うか、その陣痛なら陣痛というか、その苦しみの間がです。それまでがです。いよいよ、良い者が生まれてくることの為に、胎教を整えなければならないと、私は思うです。胎教と言う。まぁだ赤ちゃんが、お腹にある時に、母親が、良い心になっとかなければならんという訳なんです。そして初めて、生神が誕生するんです。その精進が無くして、生神が誕生する筈はない。胎教を良くする。ただ、おかげが生まれたというだけじゃない。その事を通してです、有難い信心が生まれてくるというようなおかげを頂かにゃん。そういう意欲がね、要るんだということなんです。どうぞ、皆さん一つ、今日、明日に掲げられるでありましょう。和賀心時代を作るという、その事にです。皆さんがね、もう、打って一丸になって、その事にです。私は、精進をさせて頂くならば、御造営にという、いわば、その前提なんです。信心の造営と言われます。信心の造営が、まず、和賀心時代のということをです。その運動が、展開されてくる、その運動員にならせて頂くという意気込みで、私は、おかげを頂くなら、それが、そのまま、御造営の、いや、信心の御造営ということになるだろう。信心の御造営が出来たら、形の上の御造営は、もう本当に、有難く出来るものだと、私は確信します。どうでも一つ、いよいよ、和賀心時代を創る信心に参画させて頂かねばいけないと思いますね。どうぞ。